元禄赤穂事件③ ~ 討ち入り後 ~

■ 赤穂義士の処分

 赤穂義士らの処分については、幕府のなかでも意見の違いがあったが、最終的には
「赤穂の義士たちの行為は家臣として立派だが、浅野内匠頭刃傷沙汰を起こして殿中抜刀で罰せられたので、厳格にいうと仇(かたき)は幕府のはず。それにもかかわらず吉良上野介を仇としてみだりに騒動を起こしたことは、法を犯したことになる。義士たちへの同情とは別に、法を犯したことに対する罪を問うべきであり、情のために法を曲げれば、法の権威が失われ治安を維持できなくなる」
という荻生徂徠(おぎゅう そらい ※1)という人の意見が採用された。これにより、広島にいた寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)を除く46名の旧赤穂藩士に、切腹が命じられた。

「切腹」は「打首」などの他の死罪とは異なって、名誉ある死とされていた。
切腹は、「幕臣(ばくしん)」と呼ばれる将軍の直属の部下にのみ許される死に方とされていて、その幕臣の家臣である「陪臣(ばいしん)」に対し、通常は切腹が命じられることはなかった。浅野家の家臣であった旧赤穂藩士たちは「陪臣」であったため、通常だと切腹にはならないものの、一途に主君のためを思い入り私欲を忘れて尽くしたことは、憐れむべきものであるとされ、武士としての名誉である切腹による死罪となった。大石内蔵助も、この切腹という幕府の判断に関して「どんな処分になっても良いくらいのことをしたのに切腹とは、ありがたい。」と言ったらしい。

なお、義士たちへの処分が決まったのと同時に、吉良家に対しての処遇も決定され、吉良家は領地召し上げ(※2)、改易(かいえき ※3)となった。

※1 有名な儒教者で当時の将軍である徳川綱吉(とくがわ つなよし)の政策補佐官でもあった。
※2 所有・支配している土地を取り上げること
※3 切腹よりひとつ軽い罪で、武士の身分を取り上げること

 


 ■ 赤穂義士、切腹

4つの大名の家(※4)にお預けになっていた赤穂義士46名は、幕府から切腹の命が伝えられたその日に全員切腹をした。そして、彼らの亡きがらは、浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。(※5)

※4 水野家、松平家、毛利家、細川家
※5 間新六(はざま しんろく)ただ一人だけは、親族の菩提寺であった築地本願寺に埋葬されたが、後に泉岳寺に分骨されている

 


■ 綱吉の死と浅野家再興

 義士ら切腹の6年後である宝永6年1月10日(1709年2月19日)に、徳川綱吉が死去。それにともない、新しい将軍(徳川家宣)になった際、内匠頭の弟である浅野大学が許され旗本に戻ったことより、討ち入り前に大石内蔵助らが希望していた浅野家のお家再興が実現した。