元禄赤穂事件② ~ 討ち入り ~

■ 討ち入りまで

刃傷事件の影響は、播磨赤穂藩藩主 浅野内匠頭の切腹だけではなく、幕府は浅野家に対して赤穂城の明け渡しを命令した。その命令を受け、浅野家の筆頭家老(お殿さまの次にえらい人)であった大石内蔵助は、家臣たちを集めて会議を開き「いつか内匠頭の弟をお殿さまにして、みんなで浅野家を立て直そう」と話をし、お城を明け渡した。

仕えるお城がなくなった浅野家の家臣たちは浪人となり、各地に散り散りになった。それでも、お家再興派と急進派に分かれてたまには喧嘩もしながら、浅野家の今後をどうするか会議をくりかえした。そして、討ち入りの年である元禄15年(1702年)7月18日、内匠頭の弟が広島の浅野本家にお預けとなり、浅野家を立て直せる見込みが途絶えたことをきっかけに、旧赤穂藩士たちの気持ちは「仇討ち(あだうち)」ひとつに定まった。

旧藩士らは、仇討ちを果たすため江戸へ集まってからは、みな身分を隠して情報収集をおこなった。そして、大高源五(おおたか げんご)が12月5日に吉良邸で茶会が開催される情報を入手したが、あいにく5日の茶会は延期となり、後日横川勘平(よこかわ かんぺい)が12月14日に茶会が開催される情報を入手。その情報をもとに「討ち入りは、12月15日の午前4時」と決定し、前日の12月14日の夜、47名の義士たちはそれぞれ3つの場所(※1)にわかれて集まった。(江戸時代は、日の出から次の日の出までが1日とされていたので、12月15日午前4時は、12月14日の寅の刻となり、討ち入りは12月14日とされている)

 ※1 本所林町五丁目の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、本所二ツ目相生町の前原伊助宅

 


■ 吉良邸での仇討ち

12月15日の午前4時ごろ、旧赤穂藩士47名は吉良邸に到着。表門から入る「表門組」と、裏門から入る「裏門組」の二手にわかれて侵入した。表門組の大将は大石内蔵助。裏門組の大将は、内蔵助の息子である大石主税(おおいし ちから)だった。
戦いが始まっても、肝心の吉良上野介がなかなか見つからない。そして、夜が明ける直前の午前6時前に、ようやく台所の小屋に隠れていた上野介を見つけ、打ち倒すことができた。
こうして、仇討ちは成功した。

 


■ 泉岳寺へ

吉良邸到着から約2時間後の、午前6時ごろ。義士たちは吉良邸を出て、浅野内匠頭が眠る泉岳寺(せんがくじ)へ向かった。この時、吉田忠左衛門(よしだ ちゅうざえもん)と冨森助右衛門(とみのもり すけえもん )は、内蔵助の命により、泉岳寺ではなく幕府へ自首に向かった。
そして、泉岳寺に到着。ここで、寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)は、内匠頭の弟である浅野大学への報告のため、広島に向かう。残った義士たちは、上野介の首級(しるし)を内匠頭のお墓にお供えし、仇討ちの成功を報告した。