元禄赤穂事件概要① ~ 刃傷事件(にんじょうじけん) ~

■ 刃傷事件とは

江戸時代の前期、第5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代である元禄14年(1701年)3月14日の午前11時ごろ、江戸城本丸大廊下すなわち「松の廊下」という場所で起こった事件。

 その日は、将軍綱吉にとってとても大切なイベント(※1)の日で、そのイベントの勅使饗応役(接待役)をしていたのが播磨赤穂藩(※2)藩主浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)で、その指南役(教育係で上司)が高家(こうけ ※3)の吉良上野介(きら こうずけのすけ)であった。

 イベント開始前の午前11時ごろ、吉良上野介と梶川頼照(かじかわ よりてる)が松の廊下で少し立ち話をしていると、突然、上野介の背後に浅野内匠頭が現れ「この間の遺恨覚えたるか(このまえ受けたひどい恨みを覚えているか)!」と言いながら上野介を斬りつけた。突然の出来事であったが、その場にいた頼照が内匠頭を押さえつけたため、上野介は額と背中に傷を負った程度で命にかかわるようなことはなかった。

 当時、将軍がいる江戸城内での刃傷沙汰はご法度。刃傷沙汰を起こせば即日切腹が原則であったが、その刃傷沙汰の原因が「乱心」(※4)であれば、お預けになる可能性もあった。しかし、刃傷沙汰を起こした理由を聞かれた浅野内匠頭は「乱心ではなく、遺恨である」という主旨の回答をした。将軍綱吉も大切なイベントの邪魔をされたことに激怒していたことから、それ以上この刃傷沙汰の原因究明がされることはなく、内匠頭は「殿中抜刀の罪」での即日切腹となった。

切腹

 一方、斬られた側の吉良上野介は、浅野内匠頭が「遺恨である」と言っていることに対し「さような覚えはない」と回答し、また、斬りかかられたときに上野介は刃を抜かなかったこともあり、お咎めなしとなった。

 


※1 将軍が行った年賀の挨拶の返礼のために天皇が寄越した使者を、宴や舞などで接待する催し
※2 今の兵庫県赤穂市
※3   幕府の儀式や典礼を指導する役職
※4 怒りのあまり我を忘れること