「江戸急進派を押さえた大石内蔵助の補佐官」吉田忠左衛門

名前 :吉田忠左衛門兼亮(よしだ ちゅうざえもん かねすけ)
コピー:江戸急進派を押さえた大石内蔵助の補佐官
属性 :赤穂四十七士

 

吉田忠左衛門    吉田忠左衛門

 


■ キャラクター

原惣右衛門とともに大石内蔵助を補佐した義士の中心人物の一人。弟の貝賀弥左衛門、息子の吉田沢右衛門とともに討ち入りに参加した。
仇討ちを急ぐ江戸急進派を説得し義士たちをまとめた功労者。討ち入りを成功させた後も、幕府に仇討ちを報告するといった大役を果たしている。
また、兵学や槍術(そうじゅつ)なども身につけるといった文武両道(ぶんぶりょうどう)であり人柄も良かったため、義士たちから信頼・尊敬されていた。


 

■ 刃傷事件後

忠左衛門は、刃傷事件により赤穂藩が取りつぶしになると聞き、すぐに赤穂城にかけつけている。それから討ち入りを成しとげるまで、内蔵助を補佐し続けた。
赤穂城の明け渡しが決まったときは城の修理などを監督。城の明け渡しに立ち会った役人が、忠左衛門の仕事の丁寧さを誉めている。城の明け渡し後は、藩の仕事の残りを内蔵助とともに処理した。
江戸では吉良上野介が隠居(いんきょ)することになったため、堀部安兵衛ら江戸急進派からすぐにでも仇討ちを実行しようとする意見が出始めた。忠左衛門は浅野家の再興を諦めていない内蔵助のため、自ら江戸に向かい江戸急進派を思いとどまらせる説得をした。その後も江戸にとどまって江戸急進派の動きを内蔵助に報告しながら、彼らの動きを押さえ続けた。
しかし、浅野内匠頭の弟の大学が浅野本家に預けられることになり、浅野家再興の望みはなくなってしまった。忠左衛門は内蔵助にそのことを伝え、ついに討ち入りに向かって動き始めることになった。


 

■ 討ち入り当日

討ち入りの直前、忠左衛門は、息子の沢右衛門と原惣右衛門と一緒にソバを食べた。これが後世では、討ち入りする義士みんなでソバを食べたということになり「討ち入りソバ」の由来となった。討ち入りでは、大石主税を補佐するため裏門組に所属した。
吉良上野介を討ち取った後、内蔵助の命令で冨森助右衛門(とみのもり すけえもん)とともに幕府の役人仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)の家を訪れ、吉良家への討ち入りを報告した。
その後は、幕府の命令で細川家に預けられ切腹した。切腹する前に、忠左衛門は自分の身体が大きいため切腹した後ぶざまな姿をさらしてしまうことを心配し、遺体を風呂敷で包んでほしいと風呂敷の代金を細川家に渡した、という逸話が伝わっている。


 

■ 辞世の句

かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道
享年64歳(元禄16年2月4日、切腹)


 

■ 博士のコメント

忠左衛門さんは、内蔵助さんにつぐ、ナンバー2でした。加東郡(赤穂藩の飛び地)の代官だった忠左衛門さんは、殿様の代わりに飛び地を納めていたので、加東郡の皆さんとは、大変仲良くしてたそうです。今でも加東市では、義士祭が行われています。討入りの際は、裏門大将の主税さんの補佐役でしたが、実はこっそり、采配を持っていたそうで、自分が大将をする気持ちで討入りしたって言われてます。主税さん、そりゃ14歳ですもんね。